ポーランドと敦賀のつながりを後世に伝える
日本・ポーランド文化交流協会の皆様、こんにちは。敦賀市長の渕上隆信です。
本州の日本海側沿岸のほぼ中央に位置する福井県敦賀市は、波穏やかな天然の良港・敦賀港を擁し、古くから大陸との交流拠点として、また、北前船をはじめとする日本海側物流の一大寄港地として栄えてきました。
特に明治後期から昭和初期にかけて、敦賀はヨーロッパへの玄関口としての役割を果たします。1912年から新橋駅(東京)―金ケ崎駅(敦賀)間に直通列車が運行されると、東京から敦賀へ鉄路で移動し、敦賀からウラジオストク(ロシア)へ船にて渡り、ウラジオストクからシベリア鉄道によってヨーロッパ各国へとつながる経路ができ、敦賀港は国際港としてにぎわいました。この時代、ポーランド共和国と敦賀を結びつける2つの出来事が起こりました。そのことについてご紹介いたします。
最初の出来事は1920年から1922年にかけて、ロシア革命後の内戦状態であったシベリアで家族を失い、過酷な状況にあったポーランドの子どもたち、いわゆる「ポーランド孤児」の救出です。親を失い、腹をすかせ、身を寄せる場所もない状況の孤児たちを救うために、ウラジオストクで組織された「ポーランド児童救済会」は、日本に救援を求めました。これを受け入れた日本政府は、日本赤十字社に救済を要請し、1920年から1922年にかけて孤児の受け入れが行われ、計763人のポーランド孤児が敦賀港に上陸しました。
彼らの敦賀での滞在は数時間、長くても1日というものでしたが、当時の敦賀の人々は、菓子・玩具・絵葉書等の差し入れや宿泊・休憩所などを提供するなど、できる限りの温かい手を差し伸べました。敦賀を出発した孤児たちは、東京や大阪の施設にて体調を整えた後、無事に祖国ポーランドへ帰っていきました。
二つ目の出来事は、ユダヤ難民の敦賀上陸です。1940年から1941年にかけて、ナチスドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス日本領事代理である杉原千畝氏から発給された「命のビザ」を携えたユダヤ難民たちは、シベリア鉄道でリトアニアからウラジオストクに渡り、船で敦賀に上陸しました。彼らの多くはポーランド国籍のユダヤ人でした。上陸した彼らと当時の敦賀市民の間には「少年が難民にリンゴなどの果物を無償で配った」「難民に銭湯が無料で開放された」「着の身着のままで所持金のない難民が駅前の時計店に身に付けた時計や貴金属の買い取りを求めて来店し、店主は品物を買い取るとともに食べ物を渡した」など、心温まるエピソードが残されています。その後、難民たちの多くは神戸へ向かい、数カ月を過ごしたのち、北米やオーストラリアなどの新天地へと旅立っていきました。
敦賀港は、ポーランド孤児、ユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港であり、当時の敦賀の人々が彼らを温かく迎え入れた「人道の港」としての歴史がございます。この歴史を後世に伝えようと2008年3月、資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」をオープンしました。この「ムゼウム」という言葉、ポーランド語で「資料館」という意味がございます。先に述べましたとおり、ポーランド孤児、ユダヤ難民のエピソードはポーランドと密接な関係があることから、この名が付けられました。
開館以降、ムゼウムには国内外から33万人を越える方にお越しいただきました。ポーランド孤児のご子孫やユダヤ難民ご本人、そのご家族や、ポーランド、イスラエル、リトアニアなど関係国大使にも足を運んでいただくなど、2つの出来事から多くの時間が経過した今も、関係者の皆様と交流が続いております。
私自身、関係者の皆様が敦賀にお越しいただいた際には直接お会いし、彼らから当時の様子や敦賀の人々への感謝の言葉などをお聞かせいただきました。また、2018年2月には、ポーランドを訪問させていただき、ポーランド下院対日友好議員連盟の皆様と意見交換させていただくなど、貴重な交流の機会をいただきました。
さて、昨年11月、ポーランド孤児上陸100周年、命のビザ発給80周年の記念すべき年に「人道の港敦賀ムゼウム」をリニューアルオープンいたしました。
新たな資料館は施設面積を拡充するとともに、シアターやアニメーション映像を用いた展示を導入し、人道の港の歴史をよりわかりやすくお伝えできる内容となっております。
ポーランドと敦賀を結びつける2つの出来事は、国際社会を生きる私たちに他者への理解・優しさ、そして、命の大切さ、平和の尊さを考えさせる気づきを与えてくれます。私たちは新たな人道の港敦賀ムゼウムから、これからもポーランドと敦賀のつながりを皆様にお伝えしてまいります。
会員の皆様をはじめ、このメールマガジンをご覧の皆様におかれましては、福井県や近隣にお越しの際には、ぜひ「人道の港 敦賀ムゼウム」にお立ち寄りください。
敦賀市長
渕上 隆信
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