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兵庫県私学会館内
ある音楽CD に添付される冊子に載せてもらうために、わざわざ自分でこんな拙い地図を作ってみた。
1919年、クリスマス・イヴのこと、37歳になって間もない、作曲家のカロル・シマノフスキ
(Karol Szymanowski, 1882-1937)がワルシャワに到着する。彼の「ウクライナ時代」が終わり、「ポーランド時代」あるいは「ヨーロッパ時代」が始まった瞬間である。生まれ育ったウクライナへの道は閉ざされ、もはや二度と帰ることのない土地となった。
第一次世界大戦の発端となるサライェヴォ事件が起きた時、シマノフスキは念願の地中海沿岸旅行(イタリア、シチリア、北アフリカ)を終えて一ヶ月あまりのロンドン滞在中だったが、大戦が始まったときには(1914 年8 月1 日)すでに故郷のティモシュフカに帰っていた。私の地図でキーウからドニプロ河を下ったところ、同じ右岸に星印を付けた地点「ティモシウカ」である。
《ハーフィズの愛の歌》op. 26、第三交響曲《夜の歌》op.27、ピアノのための《メトープ》op. 29 と《マスク》op. 34、ヴァイオリンとピアノのための《神話》op. 30、《おとぎ話のお姫さまの歌》op.31、第一ヴァイオリン協奏曲op. 35、第一弦楽四重奏曲op. 37‥‥
大戦の始まりと終わりという二つの日付の間に生まれた曲をこうして並べると壮観だが、この間にシマノフスキは、音楽ばかりか、小説的散文『エフェボス』まで書きはじめ、プラトン、ニーチェ、ベルクソン、ウォルター・ペイター、シェストフ、オスカー・ワイルドなどを読みあさり、後に歌劇《ルッジェロ王》となる《羊飼い》をすでに構想し始めていた。
第一次大戦をふくむ5 年半、シマノフスキが創作活動の拠点にしていたのは、生まれ育ったティモシュフカ(Tymoszówka 現ティモシウカ)村の領主屋敷であり、キユフ(Kijów キーウをポーランド語でこう呼ぶ)の町であり、エリザヴェトグラート(Elizawetgrad 現クロピヴニツキー)市に母親が所有していた家であり、友人の富豪ユゼフ・ヤロシンスキがザルーヂェ(Zarudzie 現ザルッヂャZaruddya)村に構えていた館、あるいは友人のアウグスト・イヴァンスキ(August Iwański)の領地リジャフカ(Ryżawka)だった。すべてウクライナの地にあった。
田園にひとり屹立していた領主屋敷では、戦争や革命の暴力的な影響がまったく及ばなかったわけではないが、そういうものを何とか避けることができ、ピアノも弾けた。しかしキユフ、エリザヴェトグラートのような今も残る都会と違って、ティモシュフカやザルーヂェは本当に普通の農村だったがゆえに、そこにあったポーランド人荘園領主たちの屋敷が消滅してしまった現在では、見るべきものは「何もない」という印象を与える。ポーランドの歴史や文化の上では大きな意義のある土地も、ウクライナ(国)あるいはその前のソヴィエト連邦にとっては、多くの場合無意味とみなされる、無意味どころか、他民族による支配を思い出させる「忌まわしい」場所とされる。ティモシュフカもザルーヂェも、今のところまだ(?)史跡として特別な扱いを受けたり、ガイドブックに載ったりすることもない。
20世紀前半のポーランド音楽を代表する作曲家カロル・シマノフスキはどこにいたのか? どこで仕事をしていたのか? それはポーランド語を知らなければ容易にはわからない。もしかするとウクライナ語の情報によるだけでもだめで、むしろロシア語や英語の文献の方が役立つのではないかとも思われるが、私はウクライナ語もロシア語も知らないので隔靴掻痒の思いはある。
というわけで、現在のウクライナ地図にこれらの拠点を書き込んでみたのである。地名の読みはウクライナ語に近くなるよう努めた。エリザヴェトグラートは、名前がひっきりなしに変わっているので、注意が必要だ。ただこの文章では、内容が内容なので、固有名詞は基本的にポーランド語の読みに近いカナ書きを使う。
《神話》の生まれたオアシス
今年、2023年6月新譜として、オクタヴィア・レコードから《カロル・シマノフスキ作品集――「神話」への誘い》というCDが出た。ヴァイオリニストの澤和樹さんとピアニストの木田左和子さんが今年の3月にスタジオで演奏、録音したもので、私が「《神話》の生まれたオアシス」という短文を地図とともに掲載していただいたのがこのCDだった。
CDの表題にも使われた《神話Mity》op.30は《アレトゥーサの泉》、《ナルキッソス》、《ドリュアデスと牧神》の3曲からなるヴァイオリンとピアノの連作作品で、ヴァイオリンの名手パヴェウ・コハンスキ(Paweł Kochański, 1887-1934)の妻ゾフィアに献呈されている。1915年3月、当時ザルーヂェの館に逗留していたシマノフスキは、まず連作第一部となる曲を書き上げ、4月5日、キユフの商業俱楽部で披露した。ヴァイオリンは他でもないパヴェウ・コハンスキ自身が、そしてピアノはシマノフスキ自身が弾いた。ロシア語で印刷された当日のプログラムを見ると、この曲はフランス語で《La source enchantée op. 28》となっている。つまり《魔法にかけられた泉》である。作品番号も違っていて、28番はやはりこのCD に収められた《ノクターンとタランテラ》に割り振られた番号である。
5月5日付の友人ステファン・スピース宛手紙でシマノフスキが「ザルーヂェで連作を仕上げるつもり」と書いたのはまさにこの《神話》三部作のことで、連作全体が初演されたのは一年後、地図のほぼ中央に★で示したフマン(Humań イディッシュ語ではウマンUman、ウクライナ語でウマニ)で1916年5月10日に催された「戦争犠牲者援護会フマン支部」チャリティー・コンサートにおいてだった。フマンはウクライナ人にとってだけではなく、ポーランド人にとってもユダヤ人にとっても大切な町だった(《神話》初演のころ、町の人口の半分以上、あるいは3分の2くらいはユダヤ人だったのではないだろうか)。
フマンから見れば北西へ90キロほど、キユフからは南南西に180 キロほど行った田園地帯にあるザルーヂェ――その荘園領主屋敷で大戦をよそに、シマノフスキは《第一ヴァイオリン協奏曲》、《ノクターンとタランテラ》、《神話》を書いた。いずれもヴァイオリンがほぼ主役で、きわめて高度なヴァイオリン演奏技術を要する曲ではないかというのは素人でも感じられることだ。明らかに、親友コハンスキの教え、協力がなければできない創作だったに違いなかった。後年シマノフスキはこう力説している――
「彼から直接力を貰わなかったら、ヴァイオリン曲などは書けなかった、それどころか、書こうという気さえ起らなかっただろう。〔‥‥〕オブラートに包まず、はっきり言おう――《神話》と《協奏曲》でパヴェウと僕が創り上げたのは、まったく前例のない、ヴァイオリン演奏の新しい様式、新しい表現だった。あの様式に近づいていった、あらゆる他の作曲家の作品は――彼らがどれほど天才だったとしても――後からできあがったものだ、つまり《神話》と《協奏曲》の直接の影響下か、でなければパヴェウが直接協力して書かれたものだ」(ゾフィア・コハンスカ宛1930年3月5日付書簡)。 |
次の日の晩、列車で〔ワルシャワを〕出発した私たちは翌朝にはキユフに到着し、待ち受けていた馬車に乗ってザルーヂェに向かった。ウクライナは、ロシア全土でももっとも豊かな、肥沃な土壌に恵まれた地域であり、ユゼフの領地はその正に心臓部に位置していた。彼は農業というものに対して本物の情熱をもって取り組むと同時に、どんな細かな土地でも、売りに出ればすかさず買い取った。当時すでに彼は地方で最大の荘園領主の一人として見られていた。彼が所有する数多くの土地、農場、製糖所その他の農産物加工施設からは、大きな収益が上がっていた。ザルーヂェは彼の本拠地だ。村はいたって鄙びていた。屋敷はいかにもこれ見よがしの建築ではなく、広々として使い勝手がよかった。ヴェランダからは地平線にまで広がる涯しないステップ[温帯草原]を一望にすることができた。 |
ザルーヂェ――コジャーティン〔Koziatyn〕とフマンを結ぶ鉄道の途中駅オラトゥフ〔Oratów現在オラティウOrativ〕近くに位置する荘園村だった。またここは、タデウシュ・ボブロフスキ〔Tadeusz Bobrowski, 1829-1894〕の領地カジミェルフカ〔Kazimierówka〕の隣村でもあり、そこには19世紀末、彼の甥で大作家のジョウゼフ・コンラッド=コジェニョフスキが2、3度訪れたこともあった。つまりこの辺鄙な土地も、文学や音楽という分野では知る人ぞ知る名作が萌芽し、あるいは因縁のあった場所なのだった。その頃コンラッドは出版される前の『オルメイヤー〔Almayer's Folly〕』の原稿を携えて旅していたし、カジミェルフカについては後年の『回想〔Some Reminiscences〕』の中で描くことになる。そしてシマノフスキはといえば、すでに触れたように、ここザルーヂェで彼の最高傑作のうちの何曲かを書き上げ、幾度となく愉楽の時間を過ごしながら、まだオーケストレーション前の《第三交響曲》の原稿を念入りに、心こめて推敲していた。 ザルーヂェの館は平屋建てで、立地や建築においては、この地方の平均的な領主屋敷と何ら変わる点はなかった。そのかわり内部は、玄関に足を踏み入れるや否や、その月並みならぬ佇まいと主人の優れた藝術的感性に、客は驚かされた。主のユゼフ・ヤロシンスキは、極めて富裕な荘園領主一族の中でも、人並外れた趣味と藝術的教養にかけて一人飛びぬけた存在だった。少々変人であり、少々自信の強すぎる嫌いがあったが、その自信を彼に与えていたのは、誰に頼る必要もない経済上の自由であり、自らの価値に関する確信だった。頭に浮かんだことは何でも口に出して憚ることのない、高度に傍若無人の士でもあった。しかしそこへ、愛嬌たっぷりな人柄、卓越したユーモアのセンス、決して人を飽きさせず、しばしば抱腹絶倒させる奇抜な言動といった要素が加わると、人々が彼に近づこうとし、その御屋敷での滞在を楽しみにするということに何の不思議も感じられなくなった。以前から彼と親しくしていたカロルも、そうした人々の一人だった。 ヤロシンスキは、アマチュアではあったが自身が才能あるピアニストで、とりわけ音楽の藝術家たちと一緒にいて、その雰囲気を味わうことを好み、彼らが不如意の時はしばしば助けの手を伸べた。中でも、当時楽壇に登場しつつあった二人の演奏家――アルトゥル・ルビンシュタインとパヴェウ・コハンスキの才能に感服し、自邸での長期逗留にいざなった。 ザルーヂェの館には、現代的な設備と調度品の整った、実に数多くの客間があり、一級品の絵画や版画、古いキリム〔綴れ織りのラグ〕やイコンで飾られたいくつかのサロン、食堂があり、2台の上等なベヒシュタインがあった。邸内にある物は何でも、ごく小さな品物でも、家の主によって入念に選び抜かれたものだった。そこには醜い物も、目障りな物も一切なく、あるのは大量の、小さくても高度に藝術的な品物ばかりだった。 私もまたたびたびザルーヂェの客となった。私がそこでカロルと初めて会ったのは1915年3月の末のことである。そこにはすでに1914年の秋から逗留していたパヴェウ・コハンスキとゾフィア夫妻がいた。私は宵の口に到着した。夕食が済むとすぐに、カロルとパヴェウはゾフィア、ヤロシンスキ、そして私のために、まだインクも乾かぬような、出来たてほやほやの《アレトゥーサの泉》を演奏してくれた。ということは、今日では世界中で評価され、演奏されている、あの珠玉の作の世界初演に私は立ち会ったということになる――もっとも、あんなに僅かな聴衆を前にしての演奏を世界初演と名づけることができるとすればの話である。その時の私の滞在は2週間に及んだ。その後も2年半の間、私のザルーヂェ滞在は何度も何度も繰り返され、そのあいだにはカロルと一緒にティモシュフカやキユフに出かけることもしばしばあり、1916年にはペトログラード〔=ペテルブルク〕とモスクワにも2、3週間の旅行をした。カロルはまたリジャフカにあった私の家にも数回来てくれた。 だがカロルがいちばん長く逗留したのはやはりザルーヂェだった。そこには彼にとってあらゆる点で理想的な環境があり、なおかつパヴェウとその2挺のストラディヴァリ(1挺はヤロシンスキからの贈り物だった)が、小さからぬ磁石となってカロルを惹きつけたのである。このヴァイオリンの名手は、カロルにとって共同作業の理想的な相棒だった。もちろん作曲そのものにおいてではないにせよ、作品の最終的な彫琢や、ヴァイオリンの演奏技術に曲を合わせるといった作業においてである。 したがって、ザルーヂェではシマノフスキの主としてヴァイオリン曲が生まれたのも至極当然なことだった。《アレトゥーサの泉》に続いて、残り2つの神話、《ナルキッソス》と《ドリュアデスと牧神》が書かれ、加えて――もしかすると同時に(私には順番が思い出せない)《第一ヴァイオリン協奏曲》、《ノクターンとタランテラ》も生まれた。この最後の作品はザルーヂェでスケッチが出来、すでに別のところで触れたように、リジャフカの私の家で完成したものだ。ヴァイオリン曲以外の作品でザルーヂェで書かれたのは、おそらく《マスク》だけだろう。 この時期のシマノフスキの他のピアノ曲や声楽曲――《メトープ》、《エチュード》op. 33、《第三ソナタ》、妹のゾフィアやヤロスワフ・イヴァシュキェーヴィチの詩に曲を付けた歌曲――はほぼすべてティモシュフカで作曲された。《第三交響曲》を書き上げ、オーケストレーションまでしたのもティモシュフカだった。《第一弦楽四重奏曲》第2楽章の魅力的な主題は、フマンの在にある公園ゾフィユフカの木立ちの陰で、カロルが、あの庭園の稀れに見る美しさに恍惚としながら、長時間私に待たされている間にひらめき、書きとめたものだ。エリザヴェトグラートでは、1917年末から1918年初頭にかけて、カロルはすっかり『エフェボス』執筆に没頭していた。 ザルーヂェでの生活は日課が決まっていた。朝のうち、各人がそれぞれしたいことをしていた。ピアノに向かってヴァイオリン曲の仕上げに余念のないカロルとパヴェウはその例外だった。ヤロシンスキは剪定鋏と籠を手にして庭を歩き回り、芳香を漂わす、極めて種類豊富で良く選ばれたご自慢の薔薇を手入れした。午餐の時刻が来てようやく、全員が一堂に会した。食事はいつもおいしく、上等なワインがさらにその味をひきたてた。ウォッカとコニャックをふるまうことに関しては、主人は控えめだった。ごくたまに、図々しい客たちが主人の戸棚の奥からそんな美酒を取り出すことに成功したこともあったが、そうして引っ張り出された酒瓶の一本から、予期せぬ上機嫌が迸り出たことがあった‥‥それは《タランテラ》の裡に聴こえよう。 午餐と食後のコーヒーが終わると、ゾフィアを除くわれわれ4人の男どもは、物欲しげな視線を緑の卓に送った。ブリッジ好きの欲望に苛まれてのことだ。しかし、トランプ遊びのウィルスに感染していないゾフィアは、われわれだけが別行動をすることに対して必ずしもいい顔をしなかったので、通常は、彼女がぼんやりしている時や、一時的に席を外している機会を利用し、彼女が戻ってくるまでには少なくとも3番勝負を2回ないし3回するだけのゲーム時間を確保しようと努めた。始めてしまえば既成事実であるから、ゾフィアとしても手の下しようがない。それから皆うち揃っての徒歩でまたは馬に乗ってまたは自動車での散策に出たり、テニスに興じたりしたが、片足が曲がらないカロルも喜んで、なかなかどうして上手にテニスをした。 それから夕食があり、夕食後は一日のうちでももっとも重要な、待ちに待った日課がめぐってくる――音楽の夕べである。ほぼ決まってパヴェウがヴァイオリンを、カロルがピアノを弾いた。出来立ての彼の曲の他にも、色々なヴァイオリン曲、もしくはヴァイオリンとピアノのためのソナタや他の曲を弾いた。彼らがとりわけ好んで弾いたのはブラームスの《第三ソナタ》である。カロルは時に即興演奏もしたし、自分とパヴェウとヤロシンスキがつい先頃、1914年、ロンドンとパリで聴いて感心した、ディアギレフによるストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》、そして《火の鳥》を思い出しながら弾いて聞かせてくれたこともある。音楽の夕べはしばしば夜更けまでつづいた。それは、私がこれまで味わった中でも、もっとも素敵な音楽的経験だった。 やがて、1916年の暮れ、私たちがともに過ごす時間はしだいに減っていった。コハンスキ夫妻はペトログラードへ移り、比較的軽症ではあったが猩紅熱に罹ったカロルはかなり長期にわたってキユフで足止めを食い、つづいて〔アレクサンドル・〕ジロティによって始められながらも結局歴史的事件のせいで実現しなかった《第三交響曲》〔世界初演〕のリハーサルのために何度も、そして長めのペトログラード滞在を余儀なくされた。 私がここで回想している日々は、第一次世界大戦の始めの時期にあたっていた。当時私はフマンで設立された「戦争犠牲者援護会」の会長だった。もちろん組織の資金を増やそうと奔走した。その目的でいくつかの演奏会を企画し、そこでカロルとパヴェウが初演したのが《ヴァイオリン・ソナタ》、《ロマンス》、《神話》、《ノクターンとタランテラ》だった。それらの曲の世界初演の間を縫って、ヤロシンスキと不肖、私というローカル・ヴィルトゥオーソのいたらぬ演奏が、いわば埋め草の役割をはたした。 シマノフスキの生涯において、あの2年半は例外的に憂いのない、順調な、創作においてもとても実りある歳月だった。それを可能にしたのは疑いもなくヤロシンスキであり、彼によって醸成された、ザルーヂェの比類なき環境だった。(August Iwański, ZARUDZIE 1915-1918, Ruch Muzyczny, 1967, nr 6, s. 11-12 / Karol Szymanowski we wspomnieniach, oprac. J. M. Smoter, 1974 PWM, s. 66-70) |
夕食の前、ユージョはピアノに向かった。そしてついに、一日中彼を悩ましつづけていた、あのゆらゆらとして曖昧なシューマンのメロデイを弾き通した。《たそがれに》というその歌に、マーシャは注意深く聴き入っていた。そのことがユージョを落ち着かせた。 |
わしらの土地は厄介な土地、昔から、日々おく露のように、血がうるおしてきた土地、いったいどうすれば、人が人を喰らうことのない土地になるのやら。 |
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